魂の目的

The purpose of the soul

私達が今こうして、この世に生を受け、様々な葛藤、苦しみ、痛み、喜び、幸せなど喜怒哀楽を経験しならが生を終えるということに一体どのような意味があるのでしょうか?また、そこに意味と言うものがそもそもあるのでしょうか?

人は生まれ変わり、因果の法則によってそれぞれの課題を学び、やがて解脱していくという考えがあります。つまり、この因果応報という法則の枠から離れ、至福の境地に還るということです。

果たしてそんな世界があるのでしょうか?そして、それが魂の目的だとすれば、私達はどうしてそれを覚えていないのでしょう。

今、私の父が昔に言った言葉を思い出します。「悩むことがあったら、自然の中に行けばいい。自然は答えを教えてくれる」と言いました。どんな状況だったか、何故そういう話の運びになったのかすら、思い出せないのですが、私はこの言葉を胸の奥深くに刻んでおこうと思ったのを覚えています。


手付かずの自然の中に浸るとき、そこにはただあるがままの生命の形、生き様があります。必要以上に奪わず、木々や動物が全くの法律もなしに、共存しているのです。木の葉は、ひしめきあって生えているようで、実はそれぞれが日の光があたるように譲り合っているようにすら見えます。

すべてが支えあっているのだという大きな調和の意識によって動かされているかのようです。

私は、大きな杉の木の前に座り瞑想をしたことがあります。木肌のぬくもりが全身を包み込んでくれました。そして、とてもゆっくりと、しずかに何かを伝えてきました。自分自身が木と同化して、その木がどのように過ごし、どのように生きているのか、言葉というよりは、木が私に乗り移って?或いは、私が木になって体験したのでした。

その平和なエネルギー、安心と信頼に根付いてる意識、恐れるものは何もなく、自分が宇宙の一部であることを悟りきっている、そして、倒れるまで、そこで天命を全うするという自信とでも言うべき意志がありました。

そして、それは苦労して努力してというものではなく、ただそこに在ることの喜びとでもいいましょうか、まるで、自分が王でありながら、周りのものすべてを王と讃えている、そんな堂々とした存在の中に、謙虚さを備えている。おごり高ぶるような傲慢さはかけらもなく、自分は天地の恩恵によって生かされているということを大前提として生きている・・・。まるで、聖者のような木でした。

私は、その時は感銘を受けたということはなく、あまりにも自然にそれを受け止めていました。ごくごく当然のことだなと。しかし、自分の現実の生活に戻って、その時のことを振り返ると、なんと尊い経験をさせてもらったのかと改めて思ったのです。

自然というのはそうやって生きているのだ。そして、同じ生命体である私達が学ぶべきことの真髄がそこにあると思いました。

今の世の中、欲を捨てろというのは無理な話です。生きるというのもひとつの欲であると思いますし、物質的にも恵まれた、精神的にも満たされた生活を送りたいと思うのも当然です。が、できあがってしまった今の世界に真の幸せを見つけた人がどれだけいるでしょうか?

自分たちで作り上げてきた価値観に縛られ、生命のリズムを失って、心のゆとりや調和を失ってしまっている人がどれだけいるのでしょう。

「あなたにとって一番大切なものは何ですか?」と聞かれたら、ある人は子供、ある人はお金、ある人は夢を追うこと、ある人は家族、ある人は恋人、ある人は自分、ある人は健康、ある人は愛、ある人は世界平和というかもしれません。これに間違った考えというものは存在しないと思うのです。

結局人は死にます。そして、また生まれてきます。これを何度も繰り返していきます。自分の本性にたどりつくまで、それに気がつくまで。そこにたどりつく道は人の数だけあると思います。

だから、今自分が正しいと思うことをすることでしか、人間はそこにたどりつけないのかもしれません。本来自然の中の一部として生きられるような存在であれば、思い悩むこともないし、苦しむこともありません。すべてを事の成り行きとして受け入れ、そのまま在ればいいのですから。

しかし、人間というものは、自然と同調するということから離れ、自分勝手に生きていると思い込むという形をとりました。これは、誰が悪いとかいう問題ではもはやありません。ただ、そうなっているのです。だからこそ、そういう苦しみや痛みが生まれる状況の中で学んでいくしかないのです。

私は最近腸炎になりました。突き刺すような痛みが定期的に襲ってくる、とても耐え難いものでした。その痛みと戦っている時、私は「痛い」というのは一体どういうことだろうかと思いました。何故、痛い、苦しいと思うのだろう、これは肉体の反応ではあるけれど、痛いと思うのは自分の頭なのだろうか、自分がただそう判断しているのだろうかと考えていました。

あまりの痛さに冷静さを失い洋服や枕を握り締めて歯を食いしばって何とか乗り切ろうともがいていたところ。「痛みを受け入れなさい」という言葉を聞きました。「受け入れる?どういうこと?」、「その痛みに抵抗するのではなく、受け入れなさい」。


私は痛いという感覚を早く取り除こう、早く自分から切り離そう、どっかにいってくれ、そんな気持ちでいっぱいだったのですが、この言葉を聞いて、その痛みを心の中で抱きしめようと思いました。痛いと思うのは抵抗であり、それを追い払おうと戦うことも痛みを倍増する要因であると思ったのです。

しばらく、その痛さをしっかり味わってみようと思ったのです。抵抗するのではなく、しっかりとその痛みに触れる。そうすると、痛いという感覚が変化しました。その時、直感的に「これは浄化のプロセスであり、たまったものを痛みとして経験することで清算しているのだ」と思ったのです。

普段飲んでいない薬も、こう考えが変わるまでは何の効き目もなく、大事になるのではと思っていたのですが、それが分かった後は徐々に回復に向かいました。腸を薬で治したために、残った浄化すべきものが今度は涙になってあふれ出してきました。なんてことない過去のことを思い出しては号泣し、テレビのニュースを見ては号泣し・・・一体何CCくらいでたのか分かりませんが、ビニール袋がティッシュでいっぱいになってしまいました。明らかに心の浄化が起こりました。


私達は苦しみ、痛み(心や体)を体験し、そこからどのようにしたら楽になれるだろうか、どうやったらそこから抜け出し、自由になって幸せになれるだろうかと考えます。しかし、それに抵抗しつづけることでは、結局そこに縛られてしまうのです。

それが何であれ、自分の人生における苦しみや痛みというものをしっかり経験することによって、その意味がわかります。それがもたらしてくれる導きの声を手にすることができるのです。何故、このようなことになっているのか、どうしたらいいのか。それは、私達が考えているほど残酷でもなく、冷徹でもありません。

むしろ、受け入れることによって、自然の法則のように、ゆがんでいたものが正しくなるのです。自己治癒する力は、宇宙の力であり、天の力です。抵抗することなく、それを受け入れることによって、正しいエネルギーが自分の中に蘇るのです。

様々な状況がありますが、すべて私達の心が作り出しているものです。発端は私達の心。美しいものであれ、醜いものであれ、それは私達の心が生み出しているものです。その心を正してくれるものが、私達の中にはすでに備わっているのです。そして、それを邪魔しているものが人間のエゴであると思います。しかし、これは痛みと同じであり、エゴを滅却するというようなことでは解決しません。

心が正されることが先決であり、心を浄化していくことによって、必要なエゴとそうでないものが自然にわかってくるのだと思います。

では、心を浄化するというのは、どうすればいいのでしょう?それは、先にお話したように、今ある自分の人生、生活のあらゆることに対して受け入れるということです。辛い、悲しい、痛い、苦しい、そういうことをしっかり体験してください。わざわざ引き起こす必要はないんです。誰でもすでにいろんな問題を抱えているでしょうから。

だから、嫌なこともそれを存分に体験することです。そうすると、その意味が分かります。そして、それを作り出している自分の心の歪みが正されるために浄化が起こります。ただ、それに従えばよいのです。

苦しめ!と言っているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。苦しいと思うのは、それが自分にとって悪いことであると決め付けているために苦しいのです。これでまた、浄化の機会が与えられたと思えれば、それは苦しみではなくなるのです。つまり、もっと深く広い大木のような意識で生きられる、一歩それに近づいたのだと思えるようになっていきます。

こういうことから、私達の生きる目的というのは、苦しみや悲しみ、痛みというのを味わうこと、同時に喜びや感動を味わうことであるともいえます。人が様々な経緯を辿って、同じ境地にたどりつくための計らいです。

ここに生きているということが既に奇跡であり、また偶然ではありません。誰一人として無駄ではなく、また特別でもなく、価値のない人もいません。大木は自分が王でありつつも、周囲の生命がすべて王であるかのような精神を宿していたと言いました。私達も本来は、自分達ひとりひとりが神のような崇高な存在であり、またここにある生命のすべてがそうなのであるということを知っているのです。


自分にとって正しいと思うことを精一杯やる。それも楽しんで、人生を味わうかのように。それが私達の魂の目的であると思うのです。それが、傍から見てどんなに稚拙であり、どうしようもないことだとしても、本人がそう生きたいのであれば、それはその人にとって正しいことです。そして、自分のペースで様々なことを理解していきます。

素晴らしい人間になろうと努力することは、賞賛に値する態度でしょうか?そう努力していない人は、無価値な人間でしょうか?素晴らしい人になろうとする人は、自分の中に優劣を持っています。自分の中に大好きなところと大嫌いなところがあるということです。これは、痛みと同じです。自分の大嫌いな部分を受け入れるまで、自分の中で戦争が起こるでしょう。まったく努力をしない人というのは、悟りきった聖者か、自分を価値のない人間と思い込んでいるかのどちらかです。

思い出してください。私達は皆、既に素晴らしいのです。本性は皆同じ所から来ている、光り輝く王様なのです。ただ、それを思い出すだけ。そう思えないのは、単なる誤解に過ぎません。

それを理解するために私達は様々な役割を演じて、感動したり、悶絶したり、心を闇に投じてみたり、神仏に帰依したり、金の亡者になってみたり、宗教家になってみたり、教師になったり、医者になったり、音楽家になったり、絵描きになったり、主婦になったり、社長になったり、奴隷になったり、孤児になったり、独裁者になったり、逃亡者になったり、そういう色んな立場になって経験を積み重ねているのです。

だから、今ある人生にどっぷり漬かって生きる、生き抜くということが大切なのです。その中で悟ることがたくさん多ければありがたいことだし、悟れなくてもまた違う環境に生まれ変わったりして、学んでゆくのです。

何かを成し遂げるということは大切です。それは、自分の思いに蹴りを付けるということですから。でも、この人生を生き抜くということよりも大切なことはないと思うのです。ここに生まれてきたということが奇跡であるのなら、その奇跡を活かすというのが使命ではないでしょうか。

「あ〜、もし自分があの人みたいだったら・・・」というようなことで、時間を無駄にしてはいけません。その気持ちはわかりますが、自分の人生、自分の体、自分の家族、自分の仕事は全部自分の本性を知るための贈り物です。周りにあるものすべてです。ただ、それを受け入れ、知ろうとする意欲がないと見過ごしてしまうかもしれません。抵抗したり、嫌悪感で見るとき、それを見過ごしてしまうのです。

「私はこの今の状況を受け入れます。そして、自分が悟るべきものがあるのなら、それをはっきりと悟ります」と言いましょう。そして、苦難に見える時こそ、この態度が必要なのです。


私は長い間「自分は何かをするために生まれてきたに違いない。しかし、それが何であるのか、どうやってやるのかどうしても思い出せない。一体なんだろう?」と思い続けていました。それは、音楽に関連していることなのか、ヒーリングに関係していることなのか、両方なのか、または別のことなのか?一体自分は何のために生まれてきたのだろうか?と悩み続けていました。目の前にある物事をあまりよく見ることもせず、ただ、答えを探し続けていたのです。

私が、このサイトを書き始めてから、いつまでたってもこの「魂の目的」の項が書けませんでした。書き始めるとなんだか腑に落ちないというか、違うと思ってしまい、すべてを消去するということを何度も繰り返してきました。でも、ふと思ったのです。答えを出す必要があるのだろうかと、自分の目的に答えを出す必要があるだろうか?素直に感じたことを書けばいいじゃないかと思いました。

そして、今まで自分が体験してきたことなどをもう一度よくよく思い出してみると、そのすべては自分がこういうことを人に伝えるために体験したことであるという結論に達したのです。

子供の頃からの色んな不可思議な体験というものは、自分だけでなく皆が感じていることなのだろうと思っていましたが、こうやってひとつひとつ思い出しながら書いていくと、実は今人に伝えなければいけないこと、思い出して欲しいこと、今の世界にとっても必要なことではないかと思いました。すべてがひとつにつながったような気がしました。

自分が体験してきたことを、笑われるとか非難されるというような恐れのために表現できなかったこと、それを今素直に自分の体験として書いていること、これこそが自分の目的であると悟ったのです。それが、他人にとって正しいかどうかはわかりませんが、自分にとっての正しい道であるとわかったのでした。

これは、何も書くということだけではないのですが、そういう経験を通して伝えられることがあるのだ、そして、それを伝えることが自分の目的だとはっきりわかったのです。日頃の何気ない会話の中でも、カウンセリングという機会においても、音楽ということを通しても、そして、私はそれを既に何年も前から自分なりに気がつかずにやっていたのでした。

おそらく、目的が分かるというのは、そういうことかもしれません。結局は、生きていること、その人が関わってきた物事、そこから得たものというのは、その人の目的そのものを表しているのだということです。何をするかというよりは、自分の人生の中で無いと思って探していたものは、自分が手にしていたものだったということです。

ですから、自分の人生をすべて受け入れてみてください。生まれてから今までの生い立ちの全てを。どんなに過酷で悲惨であったとしても、それはあなたのものであり、本当は素晴らしい財産なのです。それを苦しみとしてみるのか、贈り物としてみるのか、ただそれだけの違いです。

そして、それがいかなるものに見えても、そのすべてを経験することがアナタの目的であるといえますし、これから体験していくこともすべて魂にとっての目的です。

それを苦しみの経験とするか、喜びに変えてゆくか、それは見方次第であり、態度次第です。どちらでも良いのです。苦しもうが、楽しもうがどちらでもよいのです。それすら自由なのです。

幸せになりたいという気持ちから、今を否定している間は必ず苦しみます。でも、今を受け入れ、今までの人生を受け入れるとき、すべての意味がわかります。そうしたときに、心の中に光が灯るのです。「なんだ、私は生きているじゃないか。今こうして生きているじゃないか。素晴らしいことだ」と思えるのです。

心の浄化がおき、正しく心が調律されてゆくと、自分のしたいことが自ずとわかってくるでしょう。そして、それは、今までの人生体験なくしては成しえないことだと分かるはずです。すべてが必然であるということが明らかになるでしょう。

私達の本質は光であり、愛です。私達はそれを思い出そうという目的をもった同志なのです。そして、本来私達は同じ源泉から来ている生命体なのです。表現が違っているだけの、同じ光。ただ、今はそれをわざと忘れてしまっているだけなのです・・・また同じ場所に帰るために・・・。





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