この肉体を持った物理次元では、命が誕生するということと、それがなくなるという概念が当たり前です。そして、それに基づいた様々な価値観が存在しています。

そして、その価値観があるが故に人生というものを、生まれて死ぬまでの一区切りと考えて、その間をどういう風に生きるのかと考えます。様々な価値観があり、人それぞれです。

でも共通しているのは、この「死」ということがひとつの終わりであると一般的には教えられていることです。

 死ぬということは、一体どういうことでしょう?

僕も何度も身内や身近な人の死を経験しています。こんなことをいうと、ある人にとってはとっても不謹慎に聞こえるかもしれませんが、毎回毎回お葬式に参列するとき、僕は「よかったね」と思うんです。

一つ例を挙げると、小学校か中学のときに、うちの祖父がなくなりました。老衰です。病室で息をひきとるところを目の当たりにしたのですが、感覚的に霊体がすーっと上がっていくのが感じ取れて、その解放感は至福そのものだったことを覚えています。

だから、心の中で「おじいちゃん、よかったね。いってらしゃい」と言っていました。大往生と言ってもいいのかもしれません。

死に方が悲惨である場合もあります。高校のときの先輩ですが、正義感の強い、信頼をあつめ、気さくな感じのとっても後輩思いの方でした。しかし、あるときバイクの事故で、車に横から跳ねられ、ほとんど植物人間のようになってしまいました。神経をやられたので、顔の表情もまるで別人のようになっていました。ほとんど話しもできず、わけのわからないことを口にしたりという状態のようでした。

でも、僕がお見舞いに行ったときに意識が一瞬戻ったんです。僕の手を握って、「お〜スミカワやねぇか〜。よう来てくれたな。お前は俺みたいになるなよ。絶対俺みたいになるなよ」と言ってくれました。傍で看病していたご両親は、びっくりして涙ながらに「そうなの?そうなの?」と聞いてきました。

つまり僕の名前が正しいのか、彼がうわ言ではなく、正気で話をしているかを確かめたかったのです。手をしっかり握って、彼の訴えに心が張り裂けそうでしたが、大丈夫大丈夫と嘘を言って病室を出ました。あまりの変わり果てた姿に全身から力が抜けて、その場でしゃがみ込んで泣いていました。

お見舞いに行ってまもなく、亡くなり。お葬式に参列していると、お寺の前に設置された、受付のテントの上に、昨日の雨のせいでできた溜まり水がありました。僕は順番を待っているときに、何気なくそこを見ていると、いきなり強い風が吹いて、参列者の中の2人(おそらく先輩の同級生?)の上に見事に降りかかりました。

その人達には、とっても気の毒なんですが、「あ〜、仕返しされちゃったよ」と思いました。偶然といえば、偶然ですが。先輩がにんまりしているような気がしたのです。そして、お葬式は、やはりとてもすがすがしい気持ちでした。痛みから解放されて自由になったんだというのを一緒に味わっているような感じです。

しばらくして、その先輩が夢に出てきました。ベルベットの立派なローブを身にまとって、りりしい赴きで立っています。「俺は、ここで(霊界で)大事な仕事があって、それを今やっているところなんだ。」と嬉しそうに語りかけてきました。夢なので、後から思えばもっと会話をすればよかったと思ったのですが。でも、このとき、「あ〜、この人はちゃんと理由があって、この世を去ったんだな」と思いました。それは、この先輩に限ったことではなく、私達は皆いつこの世を去るかというのを大方決めていて、魂ではそれを分かっているのだと思ったのです。

この世界の価値観にどっぷり漬かっていると、死ということが終末であり、自分のすべての終焉であるかのように思うのですが、魂にとっては違います。だから、死を恐れるあまりに、生を生きられない、つまり怯えて不安に生きるというのは無意味なことです。確かに、この肉体をもったこの人生は一度きりですから、大切に、しかも有意義にしっかりと生きる、楽しく生きるということが重要ですが、死という「概念」に囚われすぎると、それこそある意味牢獄のような人生になってしまいます。

これは、非常に繊細な問題ではあると思います。実際、身内の死というものは、残されたものに様々な形で影響しますし、闘病生活が長く苦しみが多い場合も、たくさんの人の人生に影響を与えます。

なので、ここで、単純に「死というものは本当は存在しないんだよ」と簡単に片付けるわけにはいかないことではあるのですが、私達が「死」という概念のある、この世に生まれてきたということ自体に意味があるのだと理解することは大切だと感じます。

つまり、そういう価値観があるからこそ、体験できること、学べることがあるのです。死というのは、魂の観点から見ると単に移動に過ぎません。が、しかしその死という幻想を用いることによって、私達は生きるということを真剣に考え、命の大切さを理解し、限られたこの人生をいかに密度の濃いものにしていくかという選択ができるわけです。

残された者たちにとって、身近な人の死、或いはグローバルな観点から見た死というものをどのように自分の人生に肯定的に反映させることができるかという見方が出来ます。そういう意味で人の死は私達に与えられた贈り物ともなり得ます。「死んでかわいそう」というより、失った自分たちの思いが悲しいのであって、亡くなった本人達は、かわいそうどころか自由であり、本当の居場所に戻れて幸せです。

残されたものが、亡くなった方に執着をすることで、魂の移動をひきとめるような作用を起こします。また、亡くなった方も自分の死を受け入れられない場合、次の場所への移動に躊躇しているときがあります。四十九日というのは意味があり、亡くなった魂自体も準備をし、そして、残されたものにも死を受け入れ次へ進んでゆくための準備期間だと思います。

死というものを正しく理解することは、無意味な執着によって互いの人生(死んだ人にもその後の生活があるので)にストップをかけるようなことをしてはいけない、前向きに生きていくためには必要であると思います。



僕の父は、とにかく長い間糖尿病による色んな合併症を引き起こして、入退院を繰り返していましたが、さぁまた入院というその朝に家の玄関先で心臓発作を起こして、突然亡くなってしまいました。

しばらくの間父がとても困惑しているのが感じられました。実家の家の前に車をとめていると、助手席に父がいるのがわかりました。そして、とても困惑した様子で、「俺はどうなった?」と聞くのです。「お父さんはね、病院に行く前に心臓発作を起こして、死んだんだよ。だから、きっぱりあきらめて、後は心配しないで次に進むんだよ。待ってたらちゃんとお迎えが来るからね」といいました。

しばらくは、困惑が続いていたようで、色んな場所に現れたりしていました。が、お葬式が終るころには、ちゃんと理解があったらしく、迷いどころか、自由になれた自分を嬉しがっているとさえ思えました。

お葬式というのは、魂をちゃんとある場所に導くための儀式であると同時に、死者や遺族などが死を受け入れるためのものだとつくづく思うのです。言い方は妙かもしれませんが、その儀式は送り出すためのお祝いであり、この生をよくぞここまで生きてこられましたという感謝の儀です。

今生の苦はとりあえずここで終わりですから、お疲れ様でした。どうぞ楽になさってくださいねということです。遺族にとっては、ここでありったけの悲しみを感じて、たくさん泣いて、感謝を込めて送り出してあげる場です。


また、近しい存在である魂には必ず出会います。同じふるさとからやって来て、様々な役割を互いに演じて、終れば家に帰っています。

お盆というのが日本にはあります。そして、そういう風習があるからこそ可能なのですが、実際先祖の魂たちは戻ってきて、一緒に過ごすことがあります。どういう関係の仕方を生前していたかということにもよりますが。

ほとんど毎年のように、お盆の少し前になると、おばあちゃんの気配を感じます。そして、「帰ってくるけんね〜。小豆のカキ氷ば、お供えしちゃらんね」とか言ってきます。だから、僕にとっては、霊がいるとか、魂が永遠であるとか、そういうことは本当に当たり前です。ただ、あまり公言しないのは、人によって捉え方が違うし、それによって受けるインパクトが大きいと何が起こるかわからないし、変人扱いされたくないというのもあったりで・・・。だから、夢で見たとか言って話たりはするんですけど。

実際、例えばうちの祖母は長い間胃がんのせいで何度も手術をして、入退院を繰り返し、小さな小さな胃でも、頑張ってモノを食べようとするけれど、すぐに戻してしまうということを繰り返していましたから、本当に皆不憫に思っていましたし、その苦労の連続である人生を考えるといたたまれない気持ちになってしまいます。

でも、これは実際に夢で見たんですが、祖母が食卓にいておいしそうにご飯を食べています。「大きいママ、そんなに食べて大丈夫?」というと、にっこりして、「今はね、何でも好なだけ食べれるとよ」と嬉しそうに言いました。

これを、お盆の時でしたか、みんなに話しをすると、そうあって欲しいという気持ちもあるでしょうが、皆安堵していました。僕にとっては、これは夢であっても、本当にそんなんだろうなと思えます。また、身内であったりすると、感覚的にそれが理解できるものです。

私達が生きているこの人生は、永遠で魂の立場からすると本当に一瞬のような出来事です。そして、ここを離れたときに本体である自分に立ち返るのです。そして、経験したあらゆる苦しみや悩みというものは実は幻想であるということを知っているのです。


霊界と言う場所は、どこかの国のような場所であるように思う方もいらっしゃるでしょうが、説明がちょっと難しいですが・・・、こんな感じだろうと思います。

霊界というのは、結局その人の心の写し絵によって作り上げられる場所です。心の中の信念がそのまま現れる場所。たくさんの層にわかれていますから、似たり寄ったりの心の人達は、同じような場所にいるということになるのかもしれませんが、例えば僕の先祖を見ていくと、顔などははっきりしないけれども、魂がどういう領域に属しているのかということが感じとれます。

本当に気持ちの良い場所にいるものもあれば、現世と同じような環境の場所にいるようなものもいたり、苦しいだろうなと思う場所にいるものも。これは、その霊体の心がどういう状態であるのかということに比例します。

生きるということが苦しい、人は信頼できない、俺はみじめなやつだ、汚いことだって仕方ないさ、というような信念を大切にもってこの世を去ると同じような経験をする場所に移動するというこです。
ただし、移行する過程において大部分の感情のしこりのようなものや肉体の痛み苦しみなどは、解放されますから、その時点で、色んなことを理解するチャンスが与えられます。

あ〜ホントはこういう意味だったんだな、じゃ許そう。自分でも精一杯やったよなとか。そうすると、すっと行くべき場所に行けるのだと思います。しかし、うらみつらみが強かったり、物質的なものに執着する気持ちがあると、欲の塊が集合するような場所にどうしても行かないといけなくなります。そういう念波を発していて、それがその人そのものになるからです。そこで、またいろんなことに気がつかないといけないということです。

僕は霊界に意識をあわせるということはめったにしません。あまり楽しくないものと遭遇したりしますので。この間も月を観察していると、たまたまなのか、ガイドさんが見せてくれたのか、霊界に入り込んでしまいました。たくさんの魂達がうごめいている、アストラル体のレベルです。それは霊界の一側面でしかないのですが、いってみれば、みんなの頭の中の声が全部聞こえて表現されているような混沌とした場所でした。おっとと、こりゃまずい、退散しましょ〜っと言って、離れました。

月がそういう場所なのか?というわけではないのですが、霊界の入り口的な役割はしていると思いました。また、先ほども言ったように、様々な意識の層がありますので、一口に霊界といっても語りつくせるものではありません。仏教などでは、この階層をいくつかにわけて考えたり、キリスト教などでは大きく天国と地獄といったりします。

これは、僕的にははっきりとした境界線があるわけではなく、波動の違いによって、同じ性質のエネルギー(意識)がそこに集まっているというだけであり、優劣を示すものではないと思います。結局私達は神とよばれるような領域につながっていますし、地獄であろうが、天国であろうが、要は大本たる一光の無限の表現にすぎないからです。


死ということをどのように理解するのか、また、生きるということをどう理解するのかということは、どこかで聞いた真理をそのまま鵜呑みにして信じ込もうとすると危険もあります。宗教的になってしまって、教義においての真理は個人の真理とは限らないのです。

そして、どうあっても普遍的な真理はひとつしかありません。僕は思うのですが、知る必要がある場合、知ることになります。それは体験を通して分かるものです。知らないで良い場合もあります。どちらが良い悪いではないのです。

例えば、ある人は人生をこれきりだと思うことによって、精一杯生きるかもしれませんし、ある人は魂の永続性を理解することで、この人生を恐れに囚われることなく有意義に、もっと気楽に生きることができるかもしれないのです。まぁ、でも、もしアナタがここまでこのページを読んでくれているのですから、知りたいという気持ちはあるのだと思いますが。

どちらにせよ、一番大切なことは、私達は生きるために生まれてきているということ。そして、幸せに向かって、一人の幸せは他人なくしてありえないわけですから、人類の幸せにできる範囲で貢献することで、自分も幸せな人生を歩むということではないかと思います。


人の命を絶つ、或いは自分の命を絶つということがあります。これは、永遠の生命という真理に基づけば全く成立しないもののように思えるのですが、命そのものは永遠であっても、それをどう扱うのかということはまったく別の問題であり、重要視されるものです。というのも、先ほども言ったように、想念の世界に生きるわけですから、命を大切に思わないという点で、そういう世界観でできあがった場所にいくということです。

そして、ここでの課題や目的というものもありますから、それを放棄する、或いは妨げるという行為は、その人が持つ想念がどのようなものかということを考えると、亡くなった後の行き場所はとても苦しいものになります。

では、被害者となった側はどうでしょう? 冒頭の先輩の話でもあったように、自ら死のタイミングを選んでいる場合がほとんどではないかと思います。様々な要因があって、これだという方程式はないのですが、カルマを通して肉体を離れるということです。なされる一切について偶然はないと言いますから、殺すほうも殺されるほうも、結果的にはそれなりの理由があってのタイミングとなります。こういう言い方は誤解を招きやすいので、気をつけたいのですが・・・。

すべては原因があっての結果であり、この世界の観念からすると理解不能なこと、とても理不尽に思えることですら、そうなるべく要因があるということです。

私達は皆「もっと上手にやり直したい」ということで、ここにいますから、すべては、そういう思いがどのように果たされていくかということでしかないのです。ある関係では、肉体の死という形をもって完結する場合もあるでしょうし、それを回避してもっと調和のとれたほうに実を結ぶこともあるでしょう。こうなったらよいのだということは、僕にはいえません。ただ、すべての人は、もっと幸せになるため、そして、最終的には真我を体現しながらここで生きるという目的があります。

今は一度にたくさんの魂が解脱していくと言われています。つまり、この次元から更なる次元に地球自体が昇華する(地球が解脱するー因果律という枠組みから外れる)時代になったそうです。ですから、たくさんの物事をいっきにここで解決しようとしている魂やそれをサポートしよう(もっと前よりも上手くサポートしよう)としている魂などであふれかえっています。

最近特に、10代半ばくらいから20代で、現実的に見ると地に足がついていないように思われてしまいがちな若者が、実は環境問題のことや人に奉仕できることがないかと心の奥底では真剣に思っているということを目の当たりにしています。

単なる心優しい人ではなく、目的意識がちゃんとあるのです。しかし、大人の求めることや今の社会体制からすると、発想がとっぴおしもなかったり、単なる夢物語のように扱われるために、自分をどのように表現していいのか検討がつかずに、ひきこもったり、生きるという気力を失ってしまっている若年層がいます。

これからは、もっともっと精神的に成熟する必要があり、それは今の社会的価値観を覆すようなものです。私達は、宇宙的にみればとても特異な場所で、しかも一大イベント(地球ぐるみで意識がシフトし、上昇する)という出演者であるわけです。

今、やれる奉仕はなんであるのか?ということを考え、できる範囲でやるということは大切だと思います。そして、それは自己犠牲ということではなく、与えることによって、喜びを得るということ。奪い取る、物理的豊かさを追求するには、もう限界です。これは物理的な豊かさが限界であるというよりは、それを豊だと感じる感じ方がもう限界にきている。つまり、心の中で「こうじゃないんだよな」という思いが限界に来ようとしているということです。

新しい流れのエネルギーは、もっと自由であり、オープンであり、とてもやさしく愛に満ちていますから、今は古いエネルギーと混在していますが、そのうちこの流れが勢いを増すでしょう。その過程において、荒々しい今までのようなエネルギーは一掃されてしまいます。これは、社会のあり方、個人的な価値観、世界のあり方すべてに影響していき、そぐわないものは、自然に崩壊していきます。

今は変革です。政府も変革変革とは言っていますが。言ってみれば、やさしさ、愛、喜びを選択しないと生きていけない世の中に変わりつつあるということです。今、意識的にそういうものを自分に身につけ、余計なもの(傲慢さや、私利私欲のための業など)を手放していく、そして、手放していきやすい流れであるということです。

究極的には、私達の煩悩、すなわち「私が、私が」と思うエゴをあらためる、手放すことによって、唯一無限の光(真我)とともにあることを自覚しながら生きていくことが、誰にでも可能であるということです。

結局、私達が求めている幸せというのは、この真我と一体になることであると僕は思ますし、実際、真我を体験すると、この世に存在するいかなる物質も、本当に小さな一部であり、そこから得られる満足というものは、人生をかけて獲得するほどの値打ちはないということがわかります。金持ちになるのがいけないとは思いませんが、肉体を離れたときは一緒に持っていけるわけではありませんから。


「生き甲斐」と言う言葉があります。生きる甲斐があると感じられることですが、この多くは魂の目的に合致しているのだと思います。そして、これはその行為をすることによって喜びを感じられるということですから、良い事には違いないのですが、しかし、この生き甲斐を見つける人もいれば、そうでない人もいる。自分には何の生き甲斐もない、生きている甲斐がない、生きる価値がないという発想は、実はとってもおかしな発想です。

私達はこの世界において、喜びを見出すための物理的な結果や現象を得ようとする傾向があります。目標を形にしていくということですが、これはこれで素晴らしいことですが、生きているということ自体に価値があるということを見落としてしまうと、何かをしないとき、何かを失ってしまったとき、生き甲斐がないということになってしまいかねません。

私達がここにあることは、実は大変な奇跡であり、魂にとっては大変喜ばしい体験の場であり、何かを成し遂げるというよりは、ここで生きて色んなことを体験するということ自体がとっても大切であり、本来の意味での生き甲斐です。

こういう意味からすると、魂ということをちゃんと理解して、「生きる」ということ自体とても尊く、素晴らしいことであり、そこで何を体験していようとも実はとても大切なことなのだと思います。

何か大きなことを成し遂げようという気持ちに逆行するかのように、人生が傾いても、その体験から得られるものの大きさは外観だけで判断できるものではありませんし、それぞれの持っている目的も、個人的な意識レベルでは理解できない場合もあります。この世界の価値観で自分の存在意義を計ろうとすること自体が無意味なことです。

生きていること自体が素晴らしいんだと思えたらいいけど・・・、と言うかもしれません。これくらいお金を持っていたら、こういう才能があったら、こんなに社会に貢献できていたら、出世したら、有名になったら、立派な子供を育てられたら・・・と自分の価値をそういうことで計ろうとすると、必ずジレンマに陥ります。

魂に優劣はありません。ここに生きる価値の無い人もひとりもいないのです。今現在生きている人は、生かされる価値があるからこそ生きているのであって、それだけで十分に尊い存在であるということに理解を深める必要があるのではないかと思います。

そして、ここに生きるという以前に、私達は皆永遠の存在であるということ。特殊でエキサイティングな経験のできる、この地球で生きているということ自体がとても素晴らしいことです。

ここまで「分離」という幻想を完璧に表現できる場所は、宇宙の中でも稀であり、そういう中において、「自分」という個性を完璧に味わうことのできる世界は他にないのですから。

霊界であっても、他の恒星の文明であっても、はっきりとした分離感を持っていません、つまり周囲が似たり寄ったりの波動の魂が集まっており、自分のあらゆる側面を映し出す媒体がないために、客観視するということがよくできないという状態が普通なのだろうと思います。

ちょっと話が突飛押しもなくて、分かりにくいかもしれませんが、(エネルギー体などの章を参考にしてください)、他の高度な文明やそれほど発達していない文明というのは、例えば肉体を持っていたにせよ、意識がつながっているので、他との分離感というものがありません。

また、原始的な生物として存在している世界ですら意識レベルが非常に似通っているために、常に連帯し、ともに同じ目的意識を共有しながら生きているという状態(アリとかの状態に似ている?)であったり、高度に発達し、解脱している文明は、エネルギー体として存在していますので、はっきりとした個人という領域がありません。

僕の過去世のひとつに他の恒星系の転生がありますが、そこでは透け透けの肉体のような形をした(肉体の名残のような感じ)エネルギー体で皆存在しており、個性もあるのですが、互いにテレパシーでコミュニケーションをしており、ここでも「私」という認識が、この地球のものとはまったく別次元のものであるという記憶があります。

(余談ですが、僕はこの時は、やはり音楽とダンスによるパフォーマンスをしており、意識の変化を使って色や音を周囲に放つことで、色彩と波動の芸術表現をしていました。客として見ている側も、僕の意識を全身で感じ取るために、すべてを共有できる、いわゆる一体感を得る事のできるものです。

腕を回すとカラフルな色が花火のように飛び、それによって空間に様々な立体的なホログラムを作り出すという感じです。素敵でしょ?そんなことできたらいいな〜)

ちょっと話を戻して。何事についても言えるのですが、深刻に考えているときというのは、楽しんではいません。必要なことかもしれませんが。今からの時代に深刻さは無用だといわれます。エネルギーの質がもっと柔軟であるからです。

もっと楽しく自分を表現していける時代に変わっていっているということです。努力して苦労して積み上げて、汗水たらしてという時代ではないのです。本当にひとりひとりが自分の喜びであることを成すことによって、世界に貢献できるというような時代であり、逆を言うと、頑張って、頑張って歯を食いしばって、というようなあり方は、時代遅れなのです。また独りよがりの私利私欲を追求していくと、その行為がすぐに明るみになり崩壊してしまうという時代です。

もっと楽な気持ちで、楽しみながら努力し、生きていること自体に感謝しながら生きるという姿勢のほうが新しい時代にマッチしている気がします。頑張れ!という言葉より、楽しめ!と言う言葉のほうがしっくりくる、そんな時代になってきているのです。

転換する時期は、必ず多かれ少なかれ混乱する時があります。これからは、生きるということに疑問を投げかけるようなことがたくさん起こってくるでしょうが、そういう時は、古いものを全部捨て去る覚悟をしてください。

そして、もっと喜びの多い場所へ手放しで行きますという意思表示をしましょう。普通なら何回もの転生をかけて解決することも、今ではあっというまに終らせることができるのです。別に宗教とは関係ありません。良いもの、良い事に意識を向ける努力をワクワクしながらやるということです。



Copy rigihts reserved @ Kanon/Spiritual Counselling & Healing by Kuon


生と死

LIVE and DIE